令和5年梅雨時のつれづれに、ある一枚の写真から浅野炭鉱のふるさとに思いをはせるブログです
令和5年の梅雨時、横浜若葉台の散歩道に紫陽花を愛でます。朝の散歩の行き先は横浜市旭区若葉台の隣の区、横浜市緑区の三保市民の森の”きじが原”です。若葉台団地の4丁目から、3丁目、2丁目を抜け、1丁目へ、つまり、横浜若葉台の端(はし)から端まで歩き、旭区の隣の区、緑区三保市民の森”きじが原”まで歩きます。私、ふらぬい、もう数年この朝散歩を続けております。一応、目的地きじが原では紫陽花が満開なのです。お見せしましょうね、”きじが原”紫陽花です。何年か前、私のブログで”紫陽花に「ななふし」”でお見せしたことがあります。
あれから数年経過し、紫陽花も盛りを過ぎてしまったようで、一部限定の紫陽花です。
三保市民の森からの帰路、若葉台公園内にある野球場では、高齢者の集団による、グラウンドゴルフが行われておりました。遠くから写しておりますので、いくら若葉台の住人とは言え、どなたがプレーしているかの確認は無理ですからね。私、ふらぬいはプレーヤーの団地の先輩たちには挨拶を交わしておりました。高齢者の仲間の皆さん元気でプレーしておりました。
若葉台4丁目の自宅に戻る手前の若葉台公園を取り巻く3丁目の散歩道の紫陽花です。
今年の梅雨時に大輪の花をつけておりました。
この場所はかってはそれは立派な桜並木でしたが、桜の並木も3,40年でその役目を終え、最近、紫陽花にその役目をとって代わられた感じがします。
横浜若葉台は四季の花々が咲き乱れ、三保市民の森を抜けると里山ガーデン、横浜動物園ズーラシアに接続しています。若葉台遊水地にはカルガモがヒナを育て、大・中・小サギが小魚やエビを啄みに、また、カワセミもやってきますよ。隣接の若葉台公園の山から、鶯、四十雀、雉の鳴き声も聞こえてきます。あのぅ、雀、ハトやカラス、その他多くの小鳥の囀り、鳴き声も聞こえますよ。横浜若葉台の東京都町田方面にはもう一つの里山があり、そちらも小鳥たちの楽園にもなっております。こちらもブログで紹介したことがありましたね・・・。
相変わらず、私、ふらぬいのブログのイントロが長いのですが、今回のブログは「ある一枚の写真から浅野炭鉱のふるさとに思いをはせるブログ」にはいりますね。
先日、北海道の留萌本線の一部、留萌ー石狩沼田間の鉄路が廃線になってその沿線の状況をYOUTUBEで確認しておりました。たまたま懐かしい映像に出くわしました。そしてその中の映像の一枚の写真に釘付けになりました。
そのYOUTUBE 貼り付けます。
北海道雨竜郡沼田町浅野小中学校校歌と題する大沼静雄さんが公開しています。タイトルは「浅野小中学校校歌」です。大沼さんのYOUTUBE動画、私、ふらぬいにとってもお宝物のものです。貼り付けますね。
https://www.youtube.com/watch?v=WUBuv1UOhNQ
私、ふらぬいにとっては北海道雨竜郡沼田町浅野は第一の故郷で、浅野の町に小学校2年の1学期末まで住んでおりました。実は、私も数年前まで、生まれ故郷の浅野炭鉱ブログを認めておりまして、10年前、27回の”さよなら”で一応踏ん切りをつけ、その後、”さよならの向こう側”でホロピリ湖底に沈む浅野の町を眺めたブログを認め、さらに、2年後に”沼田ダムとホロピリ湖”を書き、それ以降、浅野炭鉱のブログは書いておりませんでした。でも、北海道の留萌本線が廃線(増毛ー留萌間、留萌ー沼田間)になった時にはそれなりにブログで触れたりしておりました。今回の大沼さんのブログは公開されてから1年以上になるのでしょうが、私、ふらぬいが目に止めるまでにはならなかったのです。タイトルが「浅野小中学校校歌」でしたから、私、ふらぬいは浅野小学校の1、2年に在籍したのですが、浅野小学校の校歌は知らず、小学校時代の担任の先生を知らず、さらに小学校で集合写真を撮ったことはないとまでブログに書いておりました。それで、「さよなら」ブログに浅野の写真館で撮影した写真まで載せてしまっておりました。
その「さよなら」ブログ貼り付けます。
https://47830furanui3.seesaa.net/article/201306article_3.html
私、ふらぬいの浅野小学校1年生の写真をブログに貼り付けておりました・・・。
大沼静雄さんが公開されたYOUTUBEに一枚の集合写真がありました。その撮影年月に驚きました。昭和30年3月とありました。ただ、この写真が小学1年生との記載もありませんでした。でも、もしこの写真が小学1年生のものならば、私、ふらぬいの1年生3月の集合写真かなと
眼をこらして私の姿を探しました。残念ながら、私、ふらぬいの姿も、もしかしたら写っていたであろう母の姿も見つけられませんでした。でも、浅野小学校では学年毎に集合写真を撮っていたのだと分かりました。ということは浅野小学校の卒業写真の小学校1年生に私、ふらぬいの写真があったのではと思いました。ただ、小学校や中学校では必ずしも集合写真ではなく、何かのイベント時に集合写真を撮ることが多く、今回、大沼さんが公開された集合写真に私、ふらぬいが学校にいなかった時かもしれませんしね。1年の3学期と2年の1学期は父親の転勤からみでしっかり学校に通っていたのかわかりませんでしたからね。私、ふらぬい、浅野小学校での(1年生、2年生とも)担任の先生のお名前が記憶の外にしかないのです。
とにかく浅野小学校の教室で授業を受けた記憶がほとんどないのが、情けないのですけどね。
少し気になったのが、撮影年月が写真に記載がないことですね。それと男子生徒がこのような制服(制服かどうかは分かりませんが・・・)を昭和30年3月に着用していたのかなと思いました。私、ふらぬいが記憶にあるのは、学生帽と学生服でしたが・・・。
学年の終了時に記念写真を撮影することは不思議には思いませんよ。実は、私、ふらぬいの中学校卒業時に集合写真を特別に撮影してその証拠写真?があります。これは私、ふらぬいが上富良野中学校卒業時の集合写真です。昭和38年2月27日、上富良野中学校第16回卒業生A組と集合写真に記載があります。中学校のすべて教師、関係者とA組の生徒すべてが写っています。この写真は上富良野中学校卒業写真集が発行された後に撮影され生徒皆に配布されたもので、私、ふらぬい、中学校の卒業アルバムにはさんである写真の1枚です。この写真に写っている私、ふらぬいは、卒業写真の写真の姿と違います。卒業写真は男子生徒は長髪、つまり坊っちゃん刈りがほとんどでしたが、卒業時の写真は男子生徒は坊主頭でした。北海道で高校に進学が決まった男子生徒は坊主刈りにしないといけないので、私、ふらぬいも含め男子生徒は全員が坊主頭でした。中学校としてはこの写真を進学した高校に証拠写真として送った訳ではないと思いますがね。
私、ふらぬいが思いますに、年度末、3月に集合写真撮影はあまりないのではと思いますが、時と場合に応じて行われたのではないかと思います。ただ、(記念の)集合写真は、いつ、どこで撮影したかを写真に残してくれるのが普通なのではないかと思うのですがね。もう、私、ふらぬいの中学校卒業時の写真はセピア色の懐かしい写真になっております。
今回、大沼静雄さんがYOUTUBEで公開してくれた、昭和30年3月のセピア色の写真に沼田町浅野小学校の時代、また浅野炭鉱の生活を思いださせていただき感謝の気持ちを述べさせていただきますね。本当に有難うございます。
大沼静雄さん公開のYOUTUBEのコメント欄に浅野ブログの友人の名前を認め懐かしい思いがしました。
令和5年梅雨時のつれづれに、ある一枚の写真から浅野炭鉱のふるさとに思いをはせるブログでした。
あれから数年経過し、紫陽花も盛りを過ぎてしまったようで、一部限定の紫陽花です。
三保市民の森からの帰路、若葉台公園内にある野球場では、高齢者の集団による、グラウンドゴルフが行われておりました。遠くから写しておりますので、いくら若葉台の住人とは言え、どなたがプレーしているかの確認は無理ですからね。私、ふらぬいはプレーヤーの団地の先輩たちには挨拶を交わしておりました。高齢者の仲間の皆さん元気でプレーしておりました。
若葉台4丁目の自宅に戻る手前の若葉台公園を取り巻く3丁目の散歩道の紫陽花です。
今年の梅雨時に大輪の花をつけておりました。
この場所はかってはそれは立派な桜並木でしたが、桜の並木も3,40年でその役目を終え、最近、紫陽花にその役目をとって代わられた感じがします。
横浜若葉台は四季の花々が咲き乱れ、三保市民の森を抜けると里山ガーデン、横浜動物園ズーラシアに接続しています。若葉台遊水地にはカルガモがヒナを育て、大・中・小サギが小魚やエビを啄みに、また、カワセミもやってきますよ。隣接の若葉台公園の山から、鶯、四十雀、雉の鳴き声も聞こえてきます。あのぅ、雀、ハトやカラス、その他多くの小鳥の囀り、鳴き声も聞こえますよ。横浜若葉台の東京都町田方面にはもう一つの里山があり、そちらも小鳥たちの楽園にもなっております。こちらもブログで紹介したことがありましたね・・・。
相変わらず、私、ふらぬいのブログのイントロが長いのですが、今回のブログは「ある一枚の写真から浅野炭鉱のふるさとに思いをはせるブログ」にはいりますね。
先日、北海道の留萌本線の一部、留萌ー石狩沼田間の鉄路が廃線になってその沿線の状況をYOUTUBEで確認しておりました。たまたま懐かしい映像に出くわしました。そしてその中の映像の一枚の写真に釘付けになりました。
そのYOUTUBE 貼り付けます。
北海道雨竜郡沼田町浅野小中学校校歌と題する大沼静雄さんが公開しています。タイトルは「浅野小中学校校歌」です。大沼さんのYOUTUBE動画、私、ふらぬいにとってもお宝物のものです。貼り付けますね。
https://www.youtube.com/watch?v=WUBuv1UOhNQ
私、ふらぬいにとっては北海道雨竜郡沼田町浅野は第一の故郷で、浅野の町に小学校2年の1学期末まで住んでおりました。実は、私も数年前まで、生まれ故郷の浅野炭鉱ブログを認めておりまして、10年前、27回の”さよなら”で一応踏ん切りをつけ、その後、”さよならの向こう側”でホロピリ湖底に沈む浅野の町を眺めたブログを認め、さらに、2年後に”沼田ダムとホロピリ湖”を書き、それ以降、浅野炭鉱のブログは書いておりませんでした。でも、北海道の留萌本線が廃線(増毛ー留萌間、留萌ー沼田間)になった時にはそれなりにブログで触れたりしておりました。今回の大沼さんのブログは公開されてから1年以上になるのでしょうが、私、ふらぬいが目に止めるまでにはならなかったのです。タイトルが「浅野小中学校校歌」でしたから、私、ふらぬいは浅野小学校の1、2年に在籍したのですが、浅野小学校の校歌は知らず、小学校時代の担任の先生を知らず、さらに小学校で集合写真を撮ったことはないとまでブログに書いておりました。それで、「さよなら」ブログに浅野の写真館で撮影した写真まで載せてしまっておりました。
その「さよなら」ブログ貼り付けます。
https://47830furanui3.seesaa.net/article/201306article_3.html
私、ふらぬいの浅野小学校1年生の写真をブログに貼り付けておりました・・・。
大沼静雄さんが公開されたYOUTUBEに一枚の集合写真がありました。その撮影年月に驚きました。昭和30年3月とありました。ただ、この写真が小学1年生との記載もありませんでした。でも、もしこの写真が小学1年生のものならば、私、ふらぬいの1年生3月の集合写真かなと
眼をこらして私の姿を探しました。残念ながら、私、ふらぬいの姿も、もしかしたら写っていたであろう母の姿も見つけられませんでした。でも、浅野小学校では学年毎に集合写真を撮っていたのだと分かりました。ということは浅野小学校の卒業写真の小学校1年生に私、ふらぬいの写真があったのではと思いました。ただ、小学校や中学校では必ずしも集合写真ではなく、何かのイベント時に集合写真を撮ることが多く、今回、大沼さんが公開された集合写真に私、ふらぬいが学校にいなかった時かもしれませんしね。1年の3学期と2年の1学期は父親の転勤からみでしっかり学校に通っていたのかわかりませんでしたからね。私、ふらぬい、浅野小学校での(1年生、2年生とも)担任の先生のお名前が記憶の外にしかないのです。
とにかく浅野小学校の教室で授業を受けた記憶がほとんどないのが、情けないのですけどね。
少し気になったのが、撮影年月が写真に記載がないことですね。それと男子生徒がこのような制服(制服かどうかは分かりませんが・・・)を昭和30年3月に着用していたのかなと思いました。私、ふらぬいが記憶にあるのは、学生帽と学生服でしたが・・・。
学年の終了時に記念写真を撮影することは不思議には思いませんよ。実は、私、ふらぬいの中学校卒業時に集合写真を特別に撮影してその証拠写真?があります。これは私、ふらぬいが上富良野中学校卒業時の集合写真です。昭和38年2月27日、上富良野中学校第16回卒業生A組と集合写真に記載があります。中学校のすべて教師、関係者とA組の生徒すべてが写っています。この写真は上富良野中学校卒業写真集が発行された後に撮影され生徒皆に配布されたもので、私、ふらぬい、中学校の卒業アルバムにはさんである写真の1枚です。この写真に写っている私、ふらぬいは、卒業写真の写真の姿と違います。卒業写真は男子生徒は長髪、つまり坊っちゃん刈りがほとんどでしたが、卒業時の写真は男子生徒は坊主頭でした。北海道で高校に進学が決まった男子生徒は坊主刈りにしないといけないので、私、ふらぬいも含め男子生徒は全員が坊主頭でした。中学校としてはこの写真を進学した高校に証拠写真として送った訳ではないと思いますがね。
私、ふらぬいが思いますに、年度末、3月に集合写真撮影はあまりないのではと思いますが、時と場合に応じて行われたのではないかと思います。ただ、(記念の)集合写真は、いつ、どこで撮影したかを写真に残してくれるのが普通なのではないかと思うのですがね。もう、私、ふらぬいの中学校卒業時の写真はセピア色の懐かしい写真になっております。
今回、大沼静雄さんがYOUTUBEで公開してくれた、昭和30年3月のセピア色の写真に沼田町浅野小学校の時代、また浅野炭鉱の生活を思いださせていただき感謝の気持ちを述べさせていただきますね。本当に有難うございます。
大沼静雄さん公開のYOUTUBEのコメント欄に浅野ブログの友人の名前を認め懐かしい思いがしました。
令和5年梅雨時のつれづれに、ある一枚の写真から浅野炭鉱のふるさとに思いをはせるブログでした。
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