ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ さようなら
今回の「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」は”さようなら”です。今回で27回目になります。とうとう”さようなら”まで来ました。”さよう(左様)なら”、”さよなら”とは、元来、接続詞で”それならば”の意味でありまして、”そういうわけなら”とか”しからば”の意であったのですが、いつの間にか日本語で別れの挨拶語になってしまいました。説明するまでもありませんが、説明しています。失礼。
私、ふらぬいの旧浅野炭坑ブログは團伊玖磨さんの名作「パイプのけむり」にあやかって名付けて、つまり、順番付けしております。團伊玖磨さんの名作、「パイプのけむり」は第27巻の”さようなら”が最終巻でした。「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」は今回が27回めで”さようなら”です。と言うことは今回でこの「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」が終了してしまうことになります。本当に長い間書き続けてきました。叱咤激励のコメントをたくさんいただきました。この場をお借りして感謝申し上げます。有難うございます。
それで今回の「さようなら」で「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」が終わりになってしまうのでしょうか。多分そんなことないのかなと思いますが・・・。「さよならの向こう側」と「さよならを無効の側」にしてしまう山口百恵さんの名曲もありましたから・・・。 ”おやじギャグ”? それともタモリ倶楽部の”そら耳”? はたまた週刊朝日、弘兼憲史の”パパ乳”? だんだん意味が分からなくなります? 失礼。
そうじゃあありませんね。山口百恵さんはその「さよならの向こう側」の曲を最期に引退したのでした。そしてそれ以降一度も芸能界の舞台には戻らなかったのです。今現在もそうです。でも、私、ふらぬいは山口百恵さんとは信念?が違います。しかも、「旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」は「よこはまふらのつれづれぶろぐ」の中のふるさとブログの主要なテーマの一つではありましたが、「よこはまふらのつれづれぶろぐ」はこれからも続けることになると思います。ましてこの「旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」もこのタイトルのブログは久しぶりに3ヶ月ぶりのブログですからね。これから3ヶ月以内または半年以内の復活はきっとあるように思います。
では”さようなら”ブログ、”それならば”いきますよ。何を言っているのやら。
旧浅野炭鉱の曙(あけぼの)町の炭鉱住宅(自宅)の前で友人と一緒に撮った一枚の写真がきっかけとなり、ひっそりと書き始めたブログでしたが今回で27回目のブログになりました。たまたま手に入れた雨竜郡沼田町浅野地域史跡図のブランク図を手掛かりに、ホロピリ湖に沈んだ浅野の町をなんとか生き返らせようと、ブログ仲間の皆さんからコメントやアドバイスそして叱咤激励をいただきながら「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」を長い間書き続けてきました。と言っても、ふらぬい個人ではこんなに長続きできるわけのないことですから、27回まで行く筈がない。つまり、終わるはずのない浅野炭鉱ブログを書き続けることに挑戦していたように思います。その手始めの第1回目のブログ貼り付けます。
ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ
https://47830furanui3.seesaa.net/article/200911article_5.html
私のこの第1回目のブログに書きましたが、たまたまホロピリ湖関連のブログをアクセスしていたら、ホロピリ湖畔にある沼田町浅野地域史跡図が掲載されていたのでとありますが、実はそのブログ、「きままな生活 一枚の写真」2008年09月11日の”kwake”さんのブログでした。そのブログ貼り付けます。
2008年09月11日の”kwake”さんのブログ
沼田ダム・幌新ダム
http://blog.goo.ne.jp/kwake/d/20080911
このブログに沼田ダムの畔にある沼田町浅野地域史跡図と浅野の街と浅野炭鉱が活況を呈して華やかなりし頃の写真が貼り付けてありました。写真についてはどこかうっすらと記憶にある浅野炭鉱の街の佇まい、それとの認識しかありませんでした。しばらく後で、”あさのQ”さんから写真で紹介がありました。私のブログにも貼り付け、紹介させていただいたあの写真です。
そして、その”沼田町浅野地域史跡図”です。ほとんどがブランクの史跡図、つまり、史跡図に示されているのは、かって炭鉱住宅、公共の建物や施設であった痕跡だけだったのでした。
でも、その浅野地域のブランク史跡図ですがなんとなく、私、ふらぬいの記憶の片すみにその住宅、建物や施設の面影はありました。ふらぬいが幼少時代(7歳までです)住んだあの炭鉱住宅、炭鉱病院、配給所、古河雨竜鉱業所の事務所、新雨竜駅そして浅野小・中学校の記憶だけでしたが・・・。そこから浅野炭鉱ブログが始まったのです。その後はブログの仲間?の皆さんに沼田町浅野地域史跡図のブランクに追記してもらいほぼ完成?の域まできました。でも、それ以上の詳細図(沼田町浅野地域明細図)があること分かりました。”浅野の山親父”さんがそれを公開してくれて、”あさのQ”さんがブログに貼り付けてくれました。昭和32年当時の浅野炭鉱の街の明細図でした。その明細図が掲載されたブログをまたまた貼り付けます。
第2回浅野小・中学校同窓会 会報ブログ
http://08046784.at.webry.info/201303/article_1.html
これであの”kwake”さんのブログにあった沼田町浅野地域史跡図のブランクがすべて埋まりました。
実は後で知ったのですが、”kwake”さんは札幌市在住の方で、しかも私、ふらぬいと同じ北海道上富良野町が田舎、ふるさとだったのです。しかも高校卒業時まで上富良野の住人で、その後札幌に移ったそうですから、ふらぬいも”kwake”さんの後を追っていたような・・・。もしかしたら”kwake”さんがふらぬいの後を追ったのかも知れませんが・・・。でも本当に驚きました。”kwake”さんがブログに書いておりました。
http://blog.goo.ne.jp/kwake/e/6048852b8252d93b6632f80db5fdade1
ふらぬいも負けじと上富良野町千望峠から十勝岳連峰の写真をブログで紹介したりしましたが、”kwake”さんの写真の方が素晴らしいものでした。
http://blog.goo.ne.jp/kwake/e/8934fd40dadd2a071aa7c6a249b102e0
残念ながら、”kwake”さんは事情があってか、この頃はブログを更新されておられないようですが・・・。
この「きままな生活 一枚の写真」ブログがきっかけとなり思いつきで「旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」を書き始めたのです。そして何か書くきっかけが見つかるたびにブログにしたため、今回の第27回になってしまったのです。ふらぬいの本当にローカルなブログでしたが、ブログ仲間の皆さんに随分勇気づけられ、盛り上げて頂いて感謝しております。
この頃というか始めからそうでしたが、私、ふらぬいは浅野炭鉱ブログに書きとどめる材料を探すのに窮しておりまして(なんと言いましても私のブログは長い上に中身が薄い?)、あまり頻度しげく更新ができておりませんでした。もちろん浅野時代と言えば、昭和22年に生まれてから小学校2年生、昭和30年7月まで、しかも誕生日前ですから、7歳の幼児? 少年?の目に焼き付いたものには限りがあります。ですから浅野の町であんなことがあった筈。こんなこともあった筈。でも少し自信がないなと考え、それで、沼田町浅野地域史跡図に何かを書きとどめていったのです。
私は浅野小学校時代、1年生、2年生も担任の先生のお顔もお名前も存じ上げておりません。忘れてしまっています。但し、私の作文が沼田地区の小学校作文集に掲載された時に母も交え先生とお話した記憶があるので、多分女性の担任の先生だったのではないかと思うのです。もしかしたら一緒に曙町の炭住前で写真におさまった友人の吉信君や孝一君は分かっているのではないかと思いますけどね。
本当に不思議ですが私は上富良野小学校、中学校、富良野高校そして北海道大学の教養学部、電子工学部と担任の先生はすべて存じ上げています。普通はそうですよね。ということは浅野小学校では目立たずしかも勉強など好きではなかったのかも知れません。ただ浅野小学校では友人と廊下で遊びまわっていたことは記憶にあります。それと1年生の学芸会のネズミ役(写真を貼り付けました)、そしてこれも不思議におぼえていますが、学校内で肝油(かんゆ)を頂いて食べた記憶はあります。よほど美味しかったのではないかと思います。浅野小学校で勉強していた(授業を受けた)との記憶は今ではまったくありません。
昨年、2012年10月、母が亡くなった時に上富良野の実家に帰省して、浅野時代のものはないかと母が遺した写真を整理しました。でも出てくるのは昭和30年以降の上富良野に移ってからの写真ばかりでした。母が言う、彼女の楽しい良い思い出の写真ばかりでした。北大入学式(1966年4月)当時、母と一緒に撮った写真(父が撮影)が数多く残っていたのにはおどろきました。父が死んだのが1970年の4月で、私が就職して横浜に出てきた年で、会社に入社したその月でした。父の死後、40年以上経過しておりますし、上富良野の住まいもそれから二度変わっており、さらに長兄が1989年3月に亡くなっておりましたから、浅野時代の写真はかなり処分してしまったのだと思います。
母は浅野炭鉱での暮らしについては私ども子供たちにあまり語ることは無かったのです。というか、炭鉱の暮らしはあまり楽しい良い思い出ばかりではなかったようで、ほとんど語らなかったのです。母は、「今の暮らしが一番いい」というのが口癖でした。ですから、私が上富良野在住の時ばかりではありません、私が札幌、横浜、神奈川県大和市そして横浜と住まいを変えた後も、私と話すときはいつも、「上富良野が一番いい」と話していました。浅野炭鉱はどうだったのと訊くと、「炭鉱はいつも危険ととなり合わせで心配と気苦労ばかりだったからね」といつも浅野炭鉱の話を逸らしていたように思います。息子3人を炭鉱(茅沼(かやぬま)、羽幌(はぼろ)、浅野)で生み、育て、父の仕事(炭鉱技師)の心配の種は尽きなかったと思います。ですからどんな理由があったにせよ上富良野に移ってきて、母は楽しそうでした。いつも元気でした。こんな住み良いところはない、お前(本当は名前を言います)も会社を定年退職したら上富良野に戻るのだよ、とまで話していました。でも、私が横浜に家を購入した時には、明るい言葉で叱られましたけどね。ただ、買った家が一戸建ての家でない(マンションです)のは正解だったとね。
浅野炭鉱における母の思い出と言えばやはり食べ物のことですね。大原町時代、兄二人は浅野小学校に出かけています。未就学児童(当時は幼稚園も無かった?)の私は友人たちと大原町の炭住の周りで遊び、遊び疲れて炭住にもどってきます。家に帰ると私は食べるものを求めるのですが、なぜか思い出すのは、さつまいもとかカボチャ、とうきび(とうもろこし)の蒸(ふ)かしたものがいつも鍋のなかにありました。母が子供たちのために作っていたのです。我がふらぬい家は貧乏?家族でしたが、当時(戦後そんなに時は経っていませんでしたからね)の日本人としては食べ物にあまり不自由はしなかったように思います。これが当時では普通の暮らしだったと思いますけどね。
ふらぬい家が曙町に移ってからも食べ物には不自由しませんでした。曙町の炭鉱住宅の裏の山は食ベ物の宝庫だったと思います。兄たちが食べられるものならなんでも採ってきてくれて私に食べさせてくれたように思います。思い出すのはどこかのブログに書きましたが、樺(かば)や楓(かえで)の木にキズをつけて空き缶にその木の汁を集めたもの(メープルシロップ?)をなめた(飲んだ)ことですね。当時、あまりお菓子なんか買ったことも無かったですから、春先の楽しみの一つでした。お菓子で唯一おぼえているのが、通学路の橋の近くにあった、あの日下菓子店(当時在ったかは?)で買った飴(水飴?)です。お金など持っていませんでしたからね。どうして手に入れたかは?です。
食べ物の思い出が続きますよ。なぜか曙町の我が家にみがきニシンが入った樽(たる)があったのです。ニシンを干して保存食としたものですね。母がニシン漬に使うつもりだったのかも知れませんが、自由に食べてよいとのことでおやつ代わりに食べました。美味しかったと思いますね。当時は留萌や増毛でニシンが随分獲れましたからね。あまり大事な食材ではなかったのかも。そんなみがきニシンですが、その後ニシンが不漁になって高価なものになり、高校の修学旅行時、京都駅の食堂でニシンそばを食べたのです。そのそばに添えられていたのがみがきニシンでした。幼いころに食べたみがきニシンの味とは少し違っていましたが懐かしかったですね。話がまた逸れそうですが、みがきニシンは浅野時代はおやつでした。
お腹がすくとおやつ代わりに食べました。
7歳までの幼児の記憶ですから、どうしても食べ物の思い出しか出てきませんね。
実は母とのからみで一つ大きな思い出があります。浅野小学校1年入学時、浅野の町の写真館で入学記念写真を撮影してもらった思い出です。私は浅野小学校1年生の時に記念の集合写真を撮った記憶はなぜかありませんが、新雨竜駅近くの商店街の写真館で一人で記念写真を撮りました。母に写真館に連れていってもらいました。もう60年近く前になりますね。その時の写真、もうあまり公開の機会もないかもしれませんので、このブログで見せちゃいますね。ふらぬいのブログですからね。そして、その写真館が浅野の町のどこにあったか私にとっては謎?だったのですね。
”あさのQ”さんと”元住民?かな”さんがおのおの自宅、わが家と追記してくれた沼田町浅野地域史跡図に一軒だけ写真館があります。
その写真館で撮ったであろう、私、ふらぬいが小学校1年浅野小学校入学時の記念写真です。貼り付けちゃいます。
母が大事に保管してくれたものをある時に私に送ってくれたものです。私の宝物ですが、いつ私のものになったかはあまり定かではありません。
浅野小学校の校章が素敵でしょう。凛々しく?お利口?そうな私、ふらぬいです。現在ではもちろんこの面影すらありませんよ。当たり前です。なんと言いましても、6歳と65歳ですからね・・・。
この写真を撮影した写真館ですが、私はずっと、”元住人?かな”さんがわが家と記載の位置にその写真館があったと考えていました。写真館を出た先に魚菜市場が在ったとの記憶はありませんが・・・。写真撮影の後、出口(入口)のドアを開けて出てきた記憶があるのです。写真館を出ると浅野小学校への通学路があります。左手へ行くと小学校、右手に行くとT字路。出てきた道を戻ると新雨竜駅へと続く道と記憶していました。
それで、沼田町浅野地域史跡図、沼田町浅野地域明細図に示されるように佐藤写真館がこの写真を撮った写真館と今では考えています。浅野地域明細図が私の記憶の間違いを正してくれました。
母とは小学校6年生の時に一緒に浅野、新雨竜駅に出かけました。このこともブログでも何度か書きました。曙町のM本さんのお家に出かけ、その後、浅野の町の色々なところを訪れ、新雨竜駅の近くの大きな建物(これも後で妙勝寺と分かりました)に泊まったことがありました。これも最初の記憶、印象ですが、建物の中に大きな太鼓がいくつもあったように思ったので、太鼓=天理教などと連想してしまったのでした。でも、これも正確に思い出しました。そう言えば、私の中学生時代、上富良野の実家(上富良野町での最初の住まい)に、お寺の女性の住職さん(もしかしたら住職さんの奥さん?)が何度か訪ねてこられました。母はその方を「O先生」とお呼びしていましたので、私もそうお呼びしていました。色々考えてみましたら、妙勝寺が我がふらぬい家の浅野時代の菩提寺だったのでしょう。妙勝寺がどの宗派の寺であったかこのブログを書き続けていて分かりましたからね。
あと残っている問題?は昭和63年8月21日の浅野炭鉱訪問時のことですね。浅野炭鉱の廃墟を訪れた後、上富良野への帰路、幌新温泉で開催されていた浅野会に母と長兄が参加したことですね。北海道新聞の1988年8月22日の記事ですね。
「1988年8月21日 沼田旧浅野炭鉱従業員ら炭鉱跡地で親睦会。(道新 880822)」
当日、親睦会(浅野会でした)が幌新温泉で開催されたのか炭鉱跡地(つまり浅野の町)で行われたのかで私、ふらぬいが疑問を呈しておりました。これについてははっきり分かりませんでした。兄も母もすでに亡くなっており、もうあまりこだわりはありませんですからね。でも、今となっては、千載一遇、一期一会の美しい言葉を信じていますよ。炭鉱跡地ではなく幌新温泉であったとですね。
私は当時、昭和63年頃、いくら私の生まれ故郷とはいえ、閉山した浅野炭鉱のことにそんなに興味はありませんでした。それより、当時、山のようにあった仕事(通信機器・装置を世界のお客に提案し、購入してもらい、私が設計製造設置して、お客に使っていただく)の方に興味があり、すぐさま新しい通信機器・装置の設計に取り掛かってしまったため、ふるさとの浅野炭鉱のことなどすっかり忘れてしまっていたのです。平成に時代がかわり、それからは、世界の国々を駆け巡り、受注した新しい通信装置の開発に勤(いそ)しむ日々を送っていました。どのくらいからですかね、私の勤めている会社というか通信の事業があまり振るわなくなりだしたのは・・・。私の勤めている会社が本社を完成した時からどこか危ないような感じがしていました。やがて、円高が影響しだし、防衛庁疑惑があったりして・・・。その後、もの作りをやめるなどと言い出した社長が出てきたりして・・・。携帯電話のソフト開発で大きく失敗したこともありましたし・・・。これは私の会社自身の問題かな・・・。ただ単にそれだけではないと思いますけど、いろいろなことがあって結局は通信の時代は終わった?とか。 交換機、伝送装置、マイクロ通信や衛星通信機器はいらなくなった? コンピュータがあればなんでもできる、そんな世の中になったとか。中国の華為(ホワウェイ)が急成長した? 時代が日本に味方しなくなった? これもそれだけではないと思います・・・。そう言えば炭鉱が脚光を浴びていた華やかな時代、石炭だって一時期、大いにもてはやされましたからね。時の経過とともにすっかり競争力を失ってしまって・・・。また今では見直されているとか・・・。でも一度やめてしまったものが復活するのは本当に大変なことだと思います。はっきり言って無理ですからね。ですからこのように思い出に浸っているのかも・・・。
あまり浅野炭鉱ブログとは関係ありませんけどね。
今では時々、同じ故郷を持つ「浅野の山親父」さんや「あさのQ」さんのブログを覗いて、貼り付けられた写真に私が離れた後の浅野炭鉱のまちの佇まいに触れ、営まれたであろう生活や暮らしの一端に触れたりしております。お二人のブログを今回も紹介させていただきます。
「浅野の山親父」さんのブログ
http://asano-numata1948.seesaa.net/
「あさのQ」さんのブログ
http://08046784.at.webry.info/
これからも故郷浅野炭鉱ブログで浅野の町であったことの紹介、よろしくお願いします。
とりとめののない”さようなら”ブログになりましたけど、次回”さよならの向こう側”をいつか書いてみたいと思います。その時まで皆さんお元気でお過ごしください。
まだ「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」の旅は続けます。この旅は終わらないと思います。少しふらぬいが「うるうる」ときていることご承知下さい。
それで”さようなら”との遊び心で、私、ふらぬいの好きな旅の曲3曲を「YouTube」から貼り付けます。ふらぬいの気持ちを代弁してもらえるかなと思います。もちろんパスして頂いて結構ですよ。
谷村新司 いい日旅立ち
http://www.youtube.com/watch?v=Xe1AU8fYwBg
岸洋子 希望
http://www.youtube.com/watch?v=d_q8RnZSykA
中島みゆき ヘッドライト・テールライト
https://www.youtube.com/watch?v=-RnrTiHatjU
「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」の旅はいい日に旅立ちました。そして、その旅は皆さんに支えられた終わりのない旅です。その旅は終わりません。きっと終わらないと思います。その旅は希望へと続く旅です。なんと言いましても皆さんに支えられての旅立ち(ブログ)でしたから・・・。
有難うございました。
ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ さようなら、でした。
昨日、6月8日、午後9時から、BS朝日で「幸福の黄色いハンカチ」(高倉健、武田鉄也、桃井かおり他)の映画が放映されておりました。もう何度目か名画鑑賞になります。もちろんどのような内容の映画かは知っておりますが、今回は夕張市の炭鉱住宅の有り様に釘付けになりました。このような炭鉱の住まいだったようなと懐かしく感じました。夕張市も今では人口が1万人を切ってしまったとか・・・。でも、現在もこのようであるかはどうあれ、故郷をこのように映画で確認できるのは素晴らしいと、違った意味でうらやましく思いました。NHKの朝ドラ「すずらん」では浅野炭鉱らしき炭鉱の町は映像に残っているのでしょうか? 私、ふらぬいはこの時期、ずっとタイ、バンコク出張中で一度もこの朝ドラを観ていませんでした。(6月9日、ふらぬい追記)
私、ふらぬいの旧浅野炭坑ブログは團伊玖磨さんの名作「パイプのけむり」にあやかって名付けて、つまり、順番付けしております。團伊玖磨さんの名作、「パイプのけむり」は第27巻の”さようなら”が最終巻でした。「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」は今回が27回めで”さようなら”です。と言うことは今回でこの「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」が終了してしまうことになります。本当に長い間書き続けてきました。叱咤激励のコメントをたくさんいただきました。この場をお借りして感謝申し上げます。有難うございます。
それで今回の「さようなら」で「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」が終わりになってしまうのでしょうか。多分そんなことないのかなと思いますが・・・。「さよならの向こう側」と「さよならを無効の側」にしてしまう山口百恵さんの名曲もありましたから・・・。 ”おやじギャグ”? それともタモリ倶楽部の”そら耳”? はたまた週刊朝日、弘兼憲史の”パパ乳”? だんだん意味が分からなくなります? 失礼。
そうじゃあありませんね。山口百恵さんはその「さよならの向こう側」の曲を最期に引退したのでした。そしてそれ以降一度も芸能界の舞台には戻らなかったのです。今現在もそうです。でも、私、ふらぬいは山口百恵さんとは信念?が違います。しかも、「旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」は「よこはまふらのつれづれぶろぐ」の中のふるさとブログの主要なテーマの一つではありましたが、「よこはまふらのつれづれぶろぐ」はこれからも続けることになると思います。ましてこの「旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」もこのタイトルのブログは久しぶりに3ヶ月ぶりのブログですからね。これから3ヶ月以内または半年以内の復活はきっとあるように思います。
では”さようなら”ブログ、”それならば”いきますよ。何を言っているのやら。
旧浅野炭鉱の曙(あけぼの)町の炭鉱住宅(自宅)の前で友人と一緒に撮った一枚の写真がきっかけとなり、ひっそりと書き始めたブログでしたが今回で27回目のブログになりました。たまたま手に入れた雨竜郡沼田町浅野地域史跡図のブランク図を手掛かりに、ホロピリ湖に沈んだ浅野の町をなんとか生き返らせようと、ブログ仲間の皆さんからコメントやアドバイスそして叱咤激励をいただきながら「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」を長い間書き続けてきました。と言っても、ふらぬい個人ではこんなに長続きできるわけのないことですから、27回まで行く筈がない。つまり、終わるはずのない浅野炭鉱ブログを書き続けることに挑戦していたように思います。その手始めの第1回目のブログ貼り付けます。
ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ
https://47830furanui3.seesaa.net/article/200911article_5.html
私のこの第1回目のブログに書きましたが、たまたまホロピリ湖関連のブログをアクセスしていたら、ホロピリ湖畔にある沼田町浅野地域史跡図が掲載されていたのでとありますが、実はそのブログ、「きままな生活 一枚の写真」2008年09月11日の”kwake”さんのブログでした。そのブログ貼り付けます。
2008年09月11日の”kwake”さんのブログ
沼田ダム・幌新ダム
http://blog.goo.ne.jp/kwake/d/20080911
このブログに沼田ダムの畔にある沼田町浅野地域史跡図と浅野の街と浅野炭鉱が活況を呈して華やかなりし頃の写真が貼り付けてありました。写真についてはどこかうっすらと記憶にある浅野炭鉱の街の佇まい、それとの認識しかありませんでした。しばらく後で、”あさのQ”さんから写真で紹介がありました。私のブログにも貼り付け、紹介させていただいたあの写真です。
そして、その”沼田町浅野地域史跡図”です。ほとんどがブランクの史跡図、つまり、史跡図に示されているのは、かって炭鉱住宅、公共の建物や施設であった痕跡だけだったのでした。
でも、その浅野地域のブランク史跡図ですがなんとなく、私、ふらぬいの記憶の片すみにその住宅、建物や施設の面影はありました。ふらぬいが幼少時代(7歳までです)住んだあの炭鉱住宅、炭鉱病院、配給所、古河雨竜鉱業所の事務所、新雨竜駅そして浅野小・中学校の記憶だけでしたが・・・。そこから浅野炭鉱ブログが始まったのです。その後はブログの仲間?の皆さんに沼田町浅野地域史跡図のブランクに追記してもらいほぼ完成?の域まできました。でも、それ以上の詳細図(沼田町浅野地域明細図)があること分かりました。”浅野の山親父”さんがそれを公開してくれて、”あさのQ”さんがブログに貼り付けてくれました。昭和32年当時の浅野炭鉱の街の明細図でした。その明細図が掲載されたブログをまたまた貼り付けます。
第2回浅野小・中学校同窓会 会報ブログ
http://08046784.at.webry.info/201303/article_1.html
これであの”kwake”さんのブログにあった沼田町浅野地域史跡図のブランクがすべて埋まりました。
実は後で知ったのですが、”kwake”さんは札幌市在住の方で、しかも私、ふらぬいと同じ北海道上富良野町が田舎、ふるさとだったのです。しかも高校卒業時まで上富良野の住人で、その後札幌に移ったそうですから、ふらぬいも”kwake”さんの後を追っていたような・・・。もしかしたら”kwake”さんがふらぬいの後を追ったのかも知れませんが・・・。でも本当に驚きました。”kwake”さんがブログに書いておりました。
http://blog.goo.ne.jp/kwake/e/6048852b8252d93b6632f80db5fdade1
ふらぬいも負けじと上富良野町千望峠から十勝岳連峰の写真をブログで紹介したりしましたが、”kwake”さんの写真の方が素晴らしいものでした。
http://blog.goo.ne.jp/kwake/e/8934fd40dadd2a071aa7c6a249b102e0
残念ながら、”kwake”さんは事情があってか、この頃はブログを更新されておられないようですが・・・。
この「きままな生活 一枚の写真」ブログがきっかけとなり思いつきで「旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」を書き始めたのです。そして何か書くきっかけが見つかるたびにブログにしたため、今回の第27回になってしまったのです。ふらぬいの本当にローカルなブログでしたが、ブログ仲間の皆さんに随分勇気づけられ、盛り上げて頂いて感謝しております。
この頃というか始めからそうでしたが、私、ふらぬいは浅野炭鉱ブログに書きとどめる材料を探すのに窮しておりまして(なんと言いましても私のブログは長い上に中身が薄い?)、あまり頻度しげく更新ができておりませんでした。もちろん浅野時代と言えば、昭和22年に生まれてから小学校2年生、昭和30年7月まで、しかも誕生日前ですから、7歳の幼児? 少年?の目に焼き付いたものには限りがあります。ですから浅野の町であんなことがあった筈。こんなこともあった筈。でも少し自信がないなと考え、それで、沼田町浅野地域史跡図に何かを書きとどめていったのです。
私は浅野小学校時代、1年生、2年生も担任の先生のお顔もお名前も存じ上げておりません。忘れてしまっています。但し、私の作文が沼田地区の小学校作文集に掲載された時に母も交え先生とお話した記憶があるので、多分女性の担任の先生だったのではないかと思うのです。もしかしたら一緒に曙町の炭住前で写真におさまった友人の吉信君や孝一君は分かっているのではないかと思いますけどね。
本当に不思議ですが私は上富良野小学校、中学校、富良野高校そして北海道大学の教養学部、電子工学部と担任の先生はすべて存じ上げています。普通はそうですよね。ということは浅野小学校では目立たずしかも勉強など好きではなかったのかも知れません。ただ浅野小学校では友人と廊下で遊びまわっていたことは記憶にあります。それと1年生の学芸会のネズミ役(写真を貼り付けました)、そしてこれも不思議におぼえていますが、学校内で肝油(かんゆ)を頂いて食べた記憶はあります。よほど美味しかったのではないかと思います。浅野小学校で勉強していた(授業を受けた)との記憶は今ではまったくありません。
昨年、2012年10月、母が亡くなった時に上富良野の実家に帰省して、浅野時代のものはないかと母が遺した写真を整理しました。でも出てくるのは昭和30年以降の上富良野に移ってからの写真ばかりでした。母が言う、彼女の楽しい良い思い出の写真ばかりでした。北大入学式(1966年4月)当時、母と一緒に撮った写真(父が撮影)が数多く残っていたのにはおどろきました。父が死んだのが1970年の4月で、私が就職して横浜に出てきた年で、会社に入社したその月でした。父の死後、40年以上経過しておりますし、上富良野の住まいもそれから二度変わっており、さらに長兄が1989年3月に亡くなっておりましたから、浅野時代の写真はかなり処分してしまったのだと思います。
母は浅野炭鉱での暮らしについては私ども子供たちにあまり語ることは無かったのです。というか、炭鉱の暮らしはあまり楽しい良い思い出ばかりではなかったようで、ほとんど語らなかったのです。母は、「今の暮らしが一番いい」というのが口癖でした。ですから、私が上富良野在住の時ばかりではありません、私が札幌、横浜、神奈川県大和市そして横浜と住まいを変えた後も、私と話すときはいつも、「上富良野が一番いい」と話していました。浅野炭鉱はどうだったのと訊くと、「炭鉱はいつも危険ととなり合わせで心配と気苦労ばかりだったからね」といつも浅野炭鉱の話を逸らしていたように思います。息子3人を炭鉱(茅沼(かやぬま)、羽幌(はぼろ)、浅野)で生み、育て、父の仕事(炭鉱技師)の心配の種は尽きなかったと思います。ですからどんな理由があったにせよ上富良野に移ってきて、母は楽しそうでした。いつも元気でした。こんな住み良いところはない、お前(本当は名前を言います)も会社を定年退職したら上富良野に戻るのだよ、とまで話していました。でも、私が横浜に家を購入した時には、明るい言葉で叱られましたけどね。ただ、買った家が一戸建ての家でない(マンションです)のは正解だったとね。
浅野炭鉱における母の思い出と言えばやはり食べ物のことですね。大原町時代、兄二人は浅野小学校に出かけています。未就学児童(当時は幼稚園も無かった?)の私は友人たちと大原町の炭住の周りで遊び、遊び疲れて炭住にもどってきます。家に帰ると私は食べるものを求めるのですが、なぜか思い出すのは、さつまいもとかカボチャ、とうきび(とうもろこし)の蒸(ふ)かしたものがいつも鍋のなかにありました。母が子供たちのために作っていたのです。我がふらぬい家は貧乏?家族でしたが、当時(戦後そんなに時は経っていませんでしたからね)の日本人としては食べ物にあまり不自由はしなかったように思います。これが当時では普通の暮らしだったと思いますけどね。
ふらぬい家が曙町に移ってからも食べ物には不自由しませんでした。曙町の炭鉱住宅の裏の山は食ベ物の宝庫だったと思います。兄たちが食べられるものならなんでも採ってきてくれて私に食べさせてくれたように思います。思い出すのはどこかのブログに書きましたが、樺(かば)や楓(かえで)の木にキズをつけて空き缶にその木の汁を集めたもの(メープルシロップ?)をなめた(飲んだ)ことですね。当時、あまりお菓子なんか買ったことも無かったですから、春先の楽しみの一つでした。お菓子で唯一おぼえているのが、通学路の橋の近くにあった、あの日下菓子店(当時在ったかは?)で買った飴(水飴?)です。お金など持っていませんでしたからね。どうして手に入れたかは?です。
食べ物の思い出が続きますよ。なぜか曙町の我が家にみがきニシンが入った樽(たる)があったのです。ニシンを干して保存食としたものですね。母がニシン漬に使うつもりだったのかも知れませんが、自由に食べてよいとのことでおやつ代わりに食べました。美味しかったと思いますね。当時は留萌や増毛でニシンが随分獲れましたからね。あまり大事な食材ではなかったのかも。そんなみがきニシンですが、その後ニシンが不漁になって高価なものになり、高校の修学旅行時、京都駅の食堂でニシンそばを食べたのです。そのそばに添えられていたのがみがきニシンでした。幼いころに食べたみがきニシンの味とは少し違っていましたが懐かしかったですね。話がまた逸れそうですが、みがきニシンは浅野時代はおやつでした。
お腹がすくとおやつ代わりに食べました。
7歳までの幼児の記憶ですから、どうしても食べ物の思い出しか出てきませんね。
実は母とのからみで一つ大きな思い出があります。浅野小学校1年入学時、浅野の町の写真館で入学記念写真を撮影してもらった思い出です。私は浅野小学校1年生の時に記念の集合写真を撮った記憶はなぜかありませんが、新雨竜駅近くの商店街の写真館で一人で記念写真を撮りました。母に写真館に連れていってもらいました。もう60年近く前になりますね。その時の写真、もうあまり公開の機会もないかもしれませんので、このブログで見せちゃいますね。ふらぬいのブログですからね。そして、その写真館が浅野の町のどこにあったか私にとっては謎?だったのですね。
”あさのQ”さんと”元住民?かな”さんがおのおの自宅、わが家と追記してくれた沼田町浅野地域史跡図に一軒だけ写真館があります。
その写真館で撮ったであろう、私、ふらぬいが小学校1年浅野小学校入学時の記念写真です。貼り付けちゃいます。
母が大事に保管してくれたものをある時に私に送ってくれたものです。私の宝物ですが、いつ私のものになったかはあまり定かではありません。
浅野小学校の校章が素敵でしょう。凛々しく?お利口?そうな私、ふらぬいです。現在ではもちろんこの面影すらありませんよ。当たり前です。なんと言いましても、6歳と65歳ですからね・・・。
この写真を撮影した写真館ですが、私はずっと、”元住人?かな”さんがわが家と記載の位置にその写真館があったと考えていました。写真館を出た先に魚菜市場が在ったとの記憶はありませんが・・・。写真撮影の後、出口(入口)のドアを開けて出てきた記憶があるのです。写真館を出ると浅野小学校への通学路があります。左手へ行くと小学校、右手に行くとT字路。出てきた道を戻ると新雨竜駅へと続く道と記憶していました。
それで、沼田町浅野地域史跡図、沼田町浅野地域明細図に示されるように佐藤写真館がこの写真を撮った写真館と今では考えています。浅野地域明細図が私の記憶の間違いを正してくれました。
母とは小学校6年生の時に一緒に浅野、新雨竜駅に出かけました。このこともブログでも何度か書きました。曙町のM本さんのお家に出かけ、その後、浅野の町の色々なところを訪れ、新雨竜駅の近くの大きな建物(これも後で妙勝寺と分かりました)に泊まったことがありました。これも最初の記憶、印象ですが、建物の中に大きな太鼓がいくつもあったように思ったので、太鼓=天理教などと連想してしまったのでした。でも、これも正確に思い出しました。そう言えば、私の中学生時代、上富良野の実家(上富良野町での最初の住まい)に、お寺の女性の住職さん(もしかしたら住職さんの奥さん?)が何度か訪ねてこられました。母はその方を「O先生」とお呼びしていましたので、私もそうお呼びしていました。色々考えてみましたら、妙勝寺が我がふらぬい家の浅野時代の菩提寺だったのでしょう。妙勝寺がどの宗派の寺であったかこのブログを書き続けていて分かりましたからね。
あと残っている問題?は昭和63年8月21日の浅野炭鉱訪問時のことですね。浅野炭鉱の廃墟を訪れた後、上富良野への帰路、幌新温泉で開催されていた浅野会に母と長兄が参加したことですね。北海道新聞の1988年8月22日の記事ですね。
「1988年8月21日 沼田旧浅野炭鉱従業員ら炭鉱跡地で親睦会。(道新 880822)」
当日、親睦会(浅野会でした)が幌新温泉で開催されたのか炭鉱跡地(つまり浅野の町)で行われたのかで私、ふらぬいが疑問を呈しておりました。これについてははっきり分かりませんでした。兄も母もすでに亡くなっており、もうあまりこだわりはありませんですからね。でも、今となっては、千載一遇、一期一会の美しい言葉を信じていますよ。炭鉱跡地ではなく幌新温泉であったとですね。
私は当時、昭和63年頃、いくら私の生まれ故郷とはいえ、閉山した浅野炭鉱のことにそんなに興味はありませんでした。それより、当時、山のようにあった仕事(通信機器・装置を世界のお客に提案し、購入してもらい、私が設計製造設置して、お客に使っていただく)の方に興味があり、すぐさま新しい通信機器・装置の設計に取り掛かってしまったため、ふるさとの浅野炭鉱のことなどすっかり忘れてしまっていたのです。平成に時代がかわり、それからは、世界の国々を駆け巡り、受注した新しい通信装置の開発に勤(いそ)しむ日々を送っていました。どのくらいからですかね、私の勤めている会社というか通信の事業があまり振るわなくなりだしたのは・・・。私の勤めている会社が本社を完成した時からどこか危ないような感じがしていました。やがて、円高が影響しだし、防衛庁疑惑があったりして・・・。その後、もの作りをやめるなどと言い出した社長が出てきたりして・・・。携帯電話のソフト開発で大きく失敗したこともありましたし・・・。これは私の会社自身の問題かな・・・。ただ単にそれだけではないと思いますけど、いろいろなことがあって結局は通信の時代は終わった?とか。 交換機、伝送装置、マイクロ通信や衛星通信機器はいらなくなった? コンピュータがあればなんでもできる、そんな世の中になったとか。中国の華為(ホワウェイ)が急成長した? 時代が日本に味方しなくなった? これもそれだけではないと思います・・・。そう言えば炭鉱が脚光を浴びていた華やかな時代、石炭だって一時期、大いにもてはやされましたからね。時の経過とともにすっかり競争力を失ってしまって・・・。また今では見直されているとか・・・。でも一度やめてしまったものが復活するのは本当に大変なことだと思います。はっきり言って無理ですからね。ですからこのように思い出に浸っているのかも・・・。
あまり浅野炭鉱ブログとは関係ありませんけどね。
今では時々、同じ故郷を持つ「浅野の山親父」さんや「あさのQ」さんのブログを覗いて、貼り付けられた写真に私が離れた後の浅野炭鉱のまちの佇まいに触れ、営まれたであろう生活や暮らしの一端に触れたりしております。お二人のブログを今回も紹介させていただきます。
「浅野の山親父」さんのブログ
http://asano-numata1948.seesaa.net/
「あさのQ」さんのブログ
http://08046784.at.webry.info/
これからも故郷浅野炭鉱ブログで浅野の町であったことの紹介、よろしくお願いします。
とりとめののない”さようなら”ブログになりましたけど、次回”さよならの向こう側”をいつか書いてみたいと思います。その時まで皆さんお元気でお過ごしください。
まだ「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」の旅は続けます。この旅は終わらないと思います。少しふらぬいが「うるうる」ときていることご承知下さい。
それで”さようなら”との遊び心で、私、ふらぬいの好きな旅の曲3曲を「YouTube」から貼り付けます。ふらぬいの気持ちを代弁してもらえるかなと思います。もちろんパスして頂いて結構ですよ。
谷村新司 いい日旅立ち
http://www.youtube.com/watch?v=Xe1AU8fYwBg
岸洋子 希望
http://www.youtube.com/watch?v=d_q8RnZSykA
中島みゆき ヘッドライト・テールライト
https://www.youtube.com/watch?v=-RnrTiHatjU
「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」の旅はいい日に旅立ちました。そして、その旅は皆さんに支えられた終わりのない旅です。その旅は終わりません。きっと終わらないと思います。その旅は希望へと続く旅です。なんと言いましても皆さんに支えられての旅立ち(ブログ)でしたから・・・。
有難うございました。
ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ さようなら、でした。
昨日、6月8日、午後9時から、BS朝日で「幸福の黄色いハンカチ」(高倉健、武田鉄也、桃井かおり他)の映画が放映されておりました。もう何度目か名画鑑賞になります。もちろんどのような内容の映画かは知っておりますが、今回は夕張市の炭鉱住宅の有り様に釘付けになりました。このような炭鉱の住まいだったようなと懐かしく感じました。夕張市も今では人口が1万人を切ってしまったとか・・・。でも、現在もこのようであるかはどうあれ、故郷をこのように映画で確認できるのは素晴らしいと、違った意味でうらやましく思いました。NHKの朝ドラ「すずらん」では浅野炭鉱らしき炭鉱の町は映像に残っているのでしょうか? 私、ふらぬいはこの時期、ずっとタイ、バンコク出張中で一度もこの朝ドラを観ていませんでした。(6月9日、ふらぬい追記)
この記事へのコメント
あさのQです。
”さようなら”のタイトルには驚きましたが、よく読ませていただきますと、どうやらしばらくお休みされるとのことらしく、少し安心いたしました。
つれづれ様のおかげで、今回、同窓会までたどり着けましたこと、感謝しています。ありがとうございました。
肝油は私たちの時にも配られていました。係の子が小さなピンセットで一個づつ各自の手の平に配っていました。容器に残った砂糖をなめるのが楽しみでしたね。
それと、お写真拝見いたしました。凛々しいお姿ですね。なつかしいキャハンを履いていますね。
雪深い炭鉱街をなつかしく想うのは、やはり当時の子供だけなのでしょうか。私の母も浅野に関しては、まったく興味を示しません。故郷を想う気持ちとはいったい何なのでしょうかね。
これからも、よろしくお願いいたします。
以前 浅野の写真を掲載していただいたMKです。ご無沙汰しております。私もこちらの「つれづれブログ」がきっかけで遠い昔の浅野を思い出し,あさのQ様,浅野の山親父様のブログにも(こっそり?)お邪魔している者の一人です。ただ,私もふらぬい様と同じく,とても幼い時でしたので(3~5歳,昭和43年まで) 思い出としてはあまりにも遠い記憶です。多感な青春時代を仲間と共に過ごした方たちは,どれほど懐かしく思えることでしょうか。そして,私の母も現在81歳で旭川で一人暮らしていますが,浅野のことは「嫌な記憶」らしいのです。父は国家公務員でしたので いわゆる よそ者として,炭鉱の町で暮らすこと,日々の暮らしに追われる苦労などがあったのですね。大人って大変ですね(笑)子供の頃過ごした故郷を思う気持ちは特別なものなのだな…と最近思いはじめました。
こんなふうに浅野を思い出したり,他の方の思い出を伺ったり,ふらぬい様のブログに訪問して楽しませていただいてます。(あっ,浅野以外の記事も興味深く読ませていただいてますよ!)今回,最終回??と驚いたのですが,一応今までのまとめの 一区切りと解釈して,とりあえず私もお礼を申し上げたくてコメントしました。
これからも,つれづれなるままに書き続けてください!
最後に 入学時のお写真 可愛らしいですね(^O^)
私には写真館で撮った写真,ないと思います。
きっとご自慢の息子さんだったのですね。