ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、さてさて
今回の、ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐは、”さてさて”です。今回で16回目になります。團伊玖磨さんの名作、「パイプのけむり」はこのあと、”ひねもす”そして”よもすがら”と続きます。
前回、15回目の、”さて”ぶろぐで、浅野Qさんから、浅野炭坑の町にスキー場があったこと等色々なことを教えていただきましたので皆さんに紹介しました。それで、浅野炭坑の町が山に囲まれていたことを考えていて、あの町がダムに沈んでしまって、当時あったであろう、お寺とか墓地はどのようになってしまったのだろう。そもそも浅野炭坑の町にお寺があったのだろうかと考えていました。浅野Qさんが沼田町浅野地域史跡図に追加してくれたものに、火葬場もありました。ということは、やはり、お寺も墓地もあったのではないかと考えました。でも、沼田町浅野地域史跡図を眺めていても、それらしきものは見あたらないし、浅野の住民は沼田町にお寺とお墓があっても不思議はないとも思っていました。そして、しばらくは浅野の町のお寺のこともお墓のことも忘れていました。
先日、インターネットで、ひょんなことから、札幌新琴似にある、浅野山(あさのざん)浄光寺(じょうこうじ)を見つけてしまいました。浅野山浄光寺なんて面白いな。浅野山はどこにある山なのかな? と、そのホームページを読み進めてみると、なんと旧浅野炭坑と関係があることが書いてありました。その浅野山浄光寺のURLを貼り付けますね。
http://www.onishi.or.jp/otera/2-41.htm
浅野山浄光寺の紹介、生い立ちには次のように書かれていました。
”浄光寺は、空知管内沼田町浅野の浅野炭鉱にあった寺院です。炭鉱が閉山となったため、昭和52年に札幌市北区新琴似の地に移転しました。その後、追分道路の開通にともない再び移転となり、平成9年に現在の新琴似5条17丁目に移転しました” とあります。
私のぶろぐに何回か書きましたが、私が浅野炭坑の町を離れたのが、昭和30年の7月、小学校2年の時です。ですから、その時に、この浄光寺というお寺があったのかどうかは分かりません。私が住んでいたころ、この浅野の町は、住民が3千人以上もおりましたから、現在の沼田町と同じくらいの人口を抱えていたわけです。沼田町は浅野炭炭鉱、昭和炭鉱と大きな炭鉱町に加え、幌新、恵比島なども加えると、当時、1万人をはるかに超える人口を抱える大きな町だったのではないかと思いますね。浅野に住んでいた頃、沼田の町を訪れたことが無かったというのが返す返すも残念なのです。
それで、浅野山浄光寺のことを知るに及んで、浅野炭坑の町にも、やはりお寺があったのだと考えるようになりました。と、言うことは、お寺の中に墓地もあったのでしょうから、昭和43年11月の浅野炭坑閉山まで、浄光寺のこの浅野の町での存在感は大きかったのではないかと思います。
それで、よくある話しですが、住宅や田畑がダムに沈むと、住んでいる人々が移住するのと同様に、住民と関係のあるお寺(菩提寺ですね)と先祖代々のお墓をどうするかが問題になりますね。住居、お寺とお墓、どちらもダム湖を見下ろす高台に引っ越すのが普通ですが、浅野炭坑ではそのようなことも無かったらしいので、どうしたものかと思っていました。なんと言っても、人っ子一人住まない街になってしまって、その後、沼田ダムのホロピリ湖に沈んでしまったのですからね。ということは、菩提寺も先祖代々のお墓も、どこかに引っ越しせざるを得なくなり、それで、お寺ごと、札幌新琴似に移ったということではないかと思っているのです。いかがでしょうか。
我が家は、浅野炭坑の町に住んでいた期間が、私が生まれる少し前からですから、7、8年ですね。我が家の菩提寺も祖先のお墓も浅野炭坑の町にはありませんでした。まだ、父も母も若かったから、あまり子供にお寺の話もしなかったのではないかと思います。私がお寺にでかけることもなかったのでしょう。
でも、沼田町浅野地域史跡図の中のどこかに、その浄光寺というお寺があったのではないかと思います。そして、浅野炭坑の閉山が昭和43年11月、そして、昭和52年に浅野山浄光寺が札幌新琴似に移転された訳ですね。
旧浅野炭坑が沼田ダム、ホロピリ湖の下に水没するのが平成に入ってからですので、お寺が、つまりお墓を含めて、移動するには十分の時間的余裕はあった訳ですね。そこのところも見据えて浅野炭鉱からこちら、札幌新琴似に移ってきたのかなと思いました。そして、毎年のお盆の時期には、浅野炭坑に住んで居られた住民、檀家の方との間に懐かしい話しが交わされており、また懐かしい声が聴けるのではないかとも思いましたね。
もしかしたら、そのことが、札幌での”浅野ふるさと会”活動を活発にしているのかも知れませんね。
話しは変わりますが、私のブログで、私がなんとなく憶えているのですがと前置きして、浅野炭坑の町に映画館が2館あって、どちらかが浅野会館で、どちらかが古河会館だったと思うと書いていましたが、それなりの確証がみつかりました。遺産探訪のホームページでみつけたそのページを貼り付けますね。少しめくって、浅野炭鉱/昭和炭鉱のページを参照して下さい。
http://www.geocities.jp/necojijii/page062.html
遺産探訪のホームページに、この映画館情報を見つけたのですが、皆さんもどこかでアクセスされたことがあるのではと思います。最寄り駅が新雨竜駅ではなくて浅野炭山駅となっていますので、私の記憶よりさらに古いかも知れません。それで、沼田町浅野地域史跡図よりもっともっと古い情報かも知れませんね。ですから、昭和43年11月の浅野炭鉱閉山時には劇場名が変更になっていたかも知れません。
あの、浅野炭鉱は、この(北海道)遺産探訪ホームページでは遺跡しか掲載されてなくて、少し寂しい気がするのですが、ダムに沈んでいない炭鉱の町はしっかり掲載されています。もし浅野炭鉱からそちらの炭鉱町に移られた方にとっては懐かしい情報満載のホームページになるかも知れませんよ。
それで、今回の、”さてさて”つれづれぶろぐですが、浅野Qさんが教えてくれた、映画館が浅野会館と私は思います。それで、古河会館についても書き加えます。いつもの沼田町浅野地域史跡図です。私が勝手にそのように思っていますので、もし間違っていましたら指摘して下さい。修正させていただきます。
それで、あの、もしご存じの方がおられましたら、浄光寺が沼田町浅野地域史跡図上のどこにあったのか教えていただけると嬉しいのですがね。
よろしくお願いします。
ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、さてさて でした。
”炭鉱”と”炭坑”を同じ意味合いで使っています。また浅野に旧をつけたり、つけなかったりしていますが、同じ意味ですのでよろしくお願いします。
前回、15回目の、”さて”ぶろぐで、浅野Qさんから、浅野炭坑の町にスキー場があったこと等色々なことを教えていただきましたので皆さんに紹介しました。それで、浅野炭坑の町が山に囲まれていたことを考えていて、あの町がダムに沈んでしまって、当時あったであろう、お寺とか墓地はどのようになってしまったのだろう。そもそも浅野炭坑の町にお寺があったのだろうかと考えていました。浅野Qさんが沼田町浅野地域史跡図に追加してくれたものに、火葬場もありました。ということは、やはり、お寺も墓地もあったのではないかと考えました。でも、沼田町浅野地域史跡図を眺めていても、それらしきものは見あたらないし、浅野の住民は沼田町にお寺とお墓があっても不思議はないとも思っていました。そして、しばらくは浅野の町のお寺のこともお墓のことも忘れていました。
先日、インターネットで、ひょんなことから、札幌新琴似にある、浅野山(あさのざん)浄光寺(じょうこうじ)を見つけてしまいました。浅野山浄光寺なんて面白いな。浅野山はどこにある山なのかな? と、そのホームページを読み進めてみると、なんと旧浅野炭坑と関係があることが書いてありました。その浅野山浄光寺のURLを貼り付けますね。
http://www.onishi.or.jp/otera/2-41.htm
浅野山浄光寺の紹介、生い立ちには次のように書かれていました。
”浄光寺は、空知管内沼田町浅野の浅野炭鉱にあった寺院です。炭鉱が閉山となったため、昭和52年に札幌市北区新琴似の地に移転しました。その後、追分道路の開通にともない再び移転となり、平成9年に現在の新琴似5条17丁目に移転しました” とあります。
私のぶろぐに何回か書きましたが、私が浅野炭坑の町を離れたのが、昭和30年の7月、小学校2年の時です。ですから、その時に、この浄光寺というお寺があったのかどうかは分かりません。私が住んでいたころ、この浅野の町は、住民が3千人以上もおりましたから、現在の沼田町と同じくらいの人口を抱えていたわけです。沼田町は浅野炭炭鉱、昭和炭鉱と大きな炭鉱町に加え、幌新、恵比島なども加えると、当時、1万人をはるかに超える人口を抱える大きな町だったのではないかと思いますね。浅野に住んでいた頃、沼田の町を訪れたことが無かったというのが返す返すも残念なのです。
それで、浅野山浄光寺のことを知るに及んで、浅野炭坑の町にも、やはりお寺があったのだと考えるようになりました。と、言うことは、お寺の中に墓地もあったのでしょうから、昭和43年11月の浅野炭坑閉山まで、浄光寺のこの浅野の町での存在感は大きかったのではないかと思います。
それで、よくある話しですが、住宅や田畑がダムに沈むと、住んでいる人々が移住するのと同様に、住民と関係のあるお寺(菩提寺ですね)と先祖代々のお墓をどうするかが問題になりますね。住居、お寺とお墓、どちらもダム湖を見下ろす高台に引っ越すのが普通ですが、浅野炭坑ではそのようなことも無かったらしいので、どうしたものかと思っていました。なんと言っても、人っ子一人住まない街になってしまって、その後、沼田ダムのホロピリ湖に沈んでしまったのですからね。ということは、菩提寺も先祖代々のお墓も、どこかに引っ越しせざるを得なくなり、それで、お寺ごと、札幌新琴似に移ったということではないかと思っているのです。いかがでしょうか。
我が家は、浅野炭坑の町に住んでいた期間が、私が生まれる少し前からですから、7、8年ですね。我が家の菩提寺も祖先のお墓も浅野炭坑の町にはありませんでした。まだ、父も母も若かったから、あまり子供にお寺の話もしなかったのではないかと思います。私がお寺にでかけることもなかったのでしょう。
でも、沼田町浅野地域史跡図の中のどこかに、その浄光寺というお寺があったのではないかと思います。そして、浅野炭坑の閉山が昭和43年11月、そして、昭和52年に浅野山浄光寺が札幌新琴似に移転された訳ですね。
旧浅野炭坑が沼田ダム、ホロピリ湖の下に水没するのが平成に入ってからですので、お寺が、つまりお墓を含めて、移動するには十分の時間的余裕はあった訳ですね。そこのところも見据えて浅野炭鉱からこちら、札幌新琴似に移ってきたのかなと思いました。そして、毎年のお盆の時期には、浅野炭坑に住んで居られた住民、檀家の方との間に懐かしい話しが交わされており、また懐かしい声が聴けるのではないかとも思いましたね。
もしかしたら、そのことが、札幌での”浅野ふるさと会”活動を活発にしているのかも知れませんね。
話しは変わりますが、私のブログで、私がなんとなく憶えているのですがと前置きして、浅野炭坑の町に映画館が2館あって、どちらかが浅野会館で、どちらかが古河会館だったと思うと書いていましたが、それなりの確証がみつかりました。遺産探訪のホームページでみつけたそのページを貼り付けますね。少しめくって、浅野炭鉱/昭和炭鉱のページを参照して下さい。
http://www.geocities.jp/necojijii/page062.html
遺産探訪のホームページに、この映画館情報を見つけたのですが、皆さんもどこかでアクセスされたことがあるのではと思います。最寄り駅が新雨竜駅ではなくて浅野炭山駅となっていますので、私の記憶よりさらに古いかも知れません。それで、沼田町浅野地域史跡図よりもっともっと古い情報かも知れませんね。ですから、昭和43年11月の浅野炭鉱閉山時には劇場名が変更になっていたかも知れません。
あの、浅野炭鉱は、この(北海道)遺産探訪ホームページでは遺跡しか掲載されてなくて、少し寂しい気がするのですが、ダムに沈んでいない炭鉱の町はしっかり掲載されています。もし浅野炭鉱からそちらの炭鉱町に移られた方にとっては懐かしい情報満載のホームページになるかも知れませんよ。
それで、今回の、”さてさて”つれづれぶろぐですが、浅野Qさんが教えてくれた、映画館が浅野会館と私は思います。それで、古河会館についても書き加えます。いつもの沼田町浅野地域史跡図です。私が勝手にそのように思っていますので、もし間違っていましたら指摘して下さい。修正させていただきます。
それで、あの、もしご存じの方がおられましたら、浄光寺が沼田町浅野地域史跡図上のどこにあったのか教えていただけると嬉しいのですがね。
よろしくお願いします。
ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、さてさて でした。
”炭鉱”と”炭坑”を同じ意味合いで使っています。また浅野に旧をつけたり、つけなかったりしていますが、同じ意味ですのでよろしくお願いします。
この記事へのコメント
紹介していただき、ありがとうございます。
浅野にあったお墓について、私のおぼろげな記憶ですが、写真に書き込んでみました。
http://08046784.at.webry.info/201102/article_1.html
火葬場の近くですので、それらしいとは思いますが、あまり確かな記憶ではありません。
先日母に浅野にお寺があったかどうか聞いてみたところ、「つり橋を渡ってまもなくの所にあったけど、お寺の名前までは分からない」との事でした。そのお寺が浄光寺ではないかもしれませんが、我が家の近くにお寺はあったようです。私達は閉山して浅野を出るまで、つり橋の右下辺りの広場(遊具のある公園でした)のすぐ脇に住んでました。以前公開した閉山後の写真で、荒れた街の一枚はこの辺りを写したのだったかな・・・とも思うのです。ここには2年程住みましたが、その前に「古河会館」と思われる建物の手前に家を借りていました。昭和40年頃ですが、古河会館の建物は当時なかったはずです。小学生の兄が42年頃、怪獣の映画を見たとか言ってましたが、浅野会館だったのかな。母は「廉売の奥に映画館があったはず」と。やはりアーケードのことを『レンバイ』と言ってたのでしょうかね。
MKさんは、吊り橋のあたりに住んでいらしたのですね。この吊り橋は、プールや大原のグランドに行く時に、自転車に乗ってよく通りました。タイヤが吊り橋の板に挟まりそうで、怖かったのを覚えています。
史跡図の吊り橋を右から左に渡り、左折して郵便局へ向かう途中に、同級生のT樫くんの家がありました。大きな家で、馬を飼っていて、家の前の道路には、ずっと馬糞が敷き詰められていました。馬小屋の馬の尻にまたがって遊んだ記憶があります。ご存じありませんか?
浅野Qさんの教員住宅には行ったことがあります。何軒か並んでいる住宅の一つで小学校の先生のお宅でした。息子さんが確か2人いて、親切な弟さんが「回り将棋」なるもので遊んでくれました。奥様が母と知り合いで、割り箸に巻きつけた水飴をご馳走して下さいましたよ。あさのQさんはその頃、もう住んでなかったかもしれません。
私は閉山の11月まで幼稚園に通ってました。ふらぬいさんの通学路の橋を超えて浴場手前を左折、炭住を三棟過ぎた所が幼稚園でした。そこへは一人で通ってました。
MK様のコメントに一言添えさせていただきます。
教員住宅の件、おそらく我が家ではないかと思います。あさのQ様のブログでもコメントさせていただきましたが、お母さまと母がどんなつながりだっのかは知る由もありませんが、きっと不慣れな土地への転勤で大変だった時にお世話になったのがお母さまだったのではないかと思います。母に代わって御礼申し上げます。母は現在恵庭の施設にいますが、帰省の折にはぜひ伝えてみたいと考えております。重ねて貴重な情報ありがとうございました。
浅野に住んだことはないのですが、沼田町出身で幼少の頃(昭和53〜54年頃)、廃墟となった浅野地区を小平への海水浴で通過した光景が印象に残り、ブログ記事にしました。
昭和52年の航空写真、現在のGoogle MAP、沼田の図書館で閲覧し手書きでトレースした地図(昭和35年当時)を元に浅野の今むかし合成図を掲載しています。
浄光寺は、史跡図に追記されている火葬場の下辺りです。
その南に西寺があり、現在もたまに湖面から顔を出しているお寺への階段は、位置的に西寺のものではないかと推測しています。
http://1douminnichijou.seesaa.net/article/483647297.html
コメント有難うございます。10年前のブログで少し驚きましたが、”とある道民の日常”ブログ掲載の浅野の町(廃墟)、懐かしく拝見しました。YouTubeも素晴らしいものでした。浅野の町のお寺は新雨竜駅近くの寺を加え4寺あったことわかっています。私のブログでは、26回目の”しっとり”で浅野の地図ブランクが完成したのと「浅野Qさん」のブログに浅野の地図詳細図が紹介され、昭和32,3年頃の「浅野の町の詳細」が公開されております。私のブログは27回目の”さよなら”、28回目の”さよならの向こう側”での浅野炭鉱のドライブまで続きます。momo様撮影のYoutubeの3ヶ月後に幌新温泉から浅野を過ぎ太刀別まで往復ドライブしたものです。これからもよろしくお願いします。